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神戸地方裁判所 昭和39年(わ)1346号 判決 1965年8月24日

被告人 松本楳雄

昭九・九・二一生 自動車運転手

主文

被告人は無罪。

理由

一  公訴事実

(一)  主たる訴因

被告人はタクシー運転者であるが、昭和三九年七月一七日午後五時五八分頃、普通自動車(兵五あ八二〇号)を運転し神戸市生田区波止場町中突堤船客待合所北側駐車場に乗り入れて停車し、乗客を降した後発進しようとした際停車前は開いていなかつた前方約三米の地点にある給水用メーターのマンホール蓋が開いていることを発見したのであるから同所で作業が行われていることを予測し、マンホール附近の安全を十分確認して発進し事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠りマンホールの蓋を開いていることに留意せず漫然進行した過失によりマンホールに身体半分を入れて検針中の牧野松夫(当四〇年)に気付かず自車左前部を同人に衝突させよつて同人に対し加療約六ヶ月を要する第二腰椎圧追骨折等の傷害を負わせたものである。

(二)  予備的訴因

被告人はタクシー運転者であるが、昭和三九年七月一七日午後五時五八分頃、普通乗用自動車を運転し、神戸市生田区波止場町中突堤船客待合所北側駐車場に乗り入れて停車し乗客を降した後発進しようとしたが、かかる場合自動車運転者たるものは少くとも運転席から見透し可能な範囲内で進路の安全を確認し危険の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのにかかわらず、運転席バツククツシヨンに背を凭れたまま発進してこれを怠つた過失により単にフロントガラスに顔を近ずけて前方を確認するだけの措置を講ずることによつて折から前方約二・七六米のマンホールに身体半分を入れて検針中の牧野松夫を発見することができたのにかかわらずこれに気付かず、同人の背部を左前輪で轢き、よつて同人に対し全治六ヶ月以上を要する第二腰椎圧追骨折等の傷害を負わせたものである。

二  当裁判所の判断

(一)  公訴事実中当裁判所において認定した事実

医師堀直彦作成の診断書、証人牧野松夫の当公判廷における供述、いずれも後記措信できない部分を除く被告人の検察官及び司法警察員に対する各供述調書を綜合すると、被告人はタクシー運転者であるところ、昭和三九年七月一七日午後五時五八分頃、普通乗用自動車ダツトサンP三一二型六三年式(兵五あ八二〇号)に乗客を乗せて神戸市生田区波止場町中突堤船客待合所北側駐車場に乗り入れて西向きに停車し乗客を降ろし運転日報に記載するなど二分乃至四分間程して後バツククツシヨンに背を凭れ通常の運転姿勢で発進したのであるが、その間に同自動車前方進路上にあつた給水用マンホール内に片足を入れて検数作業を開始していた牧野松夫に気付かなかつたため自車左前部を同人に衝突させて第二腰椎圧追骨折等の傷害を負わせるに至つたものであることを肯認できる。

(二)  主たる訴因に対する判断

検察官は主たる訴因において、被告人は発進当時右給水用マンホールの蓋の開被されていた事実を認めていたことを前提とし、同所で作業の行われていることを予測しその附近の安全を十分確かめて発進すべき業務上の注意義務がある旨主張し、右主張に副つた実況見分調書添付司法巡査中角俊一撮影にかかる被疑事件写真記録説明書の記載、被告人の司法警察員に対する供述調書中の「発進するとき前方三米位前に鉄板の四角の三枚組の一枚がはがれていてマンホールの修理か何かやつているなということは感じられました。しかしマンホールの中には人影が見られなかつたのでその鉄板がはがれた穴に車輪がはまらないようにといつた運転上の注意はして発進し………」の記載及び同じく検察官に対する供述調書中の発車するとき前方のマンホールの蓋が一枚開いているなと思いましたが、まさかそこに人が入つているとはわからず又運転台から見ても前のボンネットにさえぎられてマンホールの附近は死角になつていて見えませんでした」の記載がそれぞれ存する。

ところが、この点につき被告人は当公判廷において、写真撮影は事故後ずつと後に撮影されたものでその際運転台よりマンホールの確認はできなかつたし、取調当時もマンホールの蓋も見えなかつたと言つたところ、実地検証した結果見えるのだから前方不注視だと言つて聞きいれてくれなかつた旨弁疏している。

そこで本件事故の捜査状況を検討してみるに、証人中角俊一、同本田良治及び被告人の当公判廷における各供述と実況見分調書によれば当時神戸水上警察署員であつた中角俊一、本田良治両巡査により事故翌日の七月一八日午前中より捜査が開始されたもので、先ず被告人の指示による事故当時の停車位置等の見分が現場において行われ、次いで附近の派出所で詳細につき事情聴取があつて調書の作成がなされたものであるが、現場においては事故当時被告人の運転していた自動車がなかつたため実際に運転台からマンホールの蓋が確認できるか否かの見分がなされてなく、またその点に関する供述調書の記載も、断定はできないが取調官の「マンホールの蓋は見えたろう」との発問に対し「見えたような気がする」との供述のなされた結果の録取である形跡が認められ、さらに写真撮影に至つては事故後一ヶ月半を経た九月三日に至り前記事故直後の見分結果で確認した位置に停車せしめるような方法でなく、撮影時の被告人の指示による地点で撮影されたものであることも肯認される。

当裁判所のなした検証(第一回)調書によれば、本件マンホールは駐車場南東部にあつて東西に縦七〇糎、横四六糎の鉄板三枚で覆われた長方形のものであつて、事故当時はそのうち中央部の鉄板がマンホールに殆ど接して南側に置かれ、被害者は開被された部分に左足を入れ地上五〇糎の地点の高さにまで南向きに俯向き検数していたものであることが認められ、また、同じく検証(第二回)調書によれば、事故当時の自動車と同型の自動車運転席よりバツククツシヨンに凭れた姿勢での前方死角範囲は直前方においてバンバーより約三五米、左斜前方において同じく約四・六米内であることが認められる。

以上の各検証結果及び前記実況見分調書から、前記被告人の取調官に対する供述を検討してみると、被告人の停車位置よりマンホール車縁まで直前方三米(この数値は証人本田良治の供述により運転手の位置よりの距離と認められる)となつていて、そうすれば開被されたマンホールまでの距離は三・四米乃至三・八米存することとなるのでその地点の地表面の一部確認は可能であり、従つて当然地上五〇糎の高さに及んでいた被害者の確認が可能であるに拘らず、却つてその直ぐ南側に置かれたマンホールの蓋を発見して被害者を発見しなかつたとする被告人の取調官に対する供述は極めて合理性を欠くものと考えなければならず、むしろ進路上に作業中の被害者を発見しながらその儘発進することの通常考えられないところから、被告人が当公判廷において述べるように、両者のいずれをも死角範囲内にあつて発見しなかつたのではないかとの疑念をさしはさむ余地が十分存する。

さらに、前記実況見分調書添付の写真<4>によれば前記撮影者の説明に反し前記疑念を一層深くするものである。

以上の理由により、被告人の前記供述は取調官の誘導により誤つてなされたものであり、信用することができず、他に検察官の前記主張を裏付ける証拠も見出せないので結局主たる訴因については犯罪の証明がないに帰する。

(三)  予備的訴因に対する判断

検察官はさらに発進に際してはフロントガラスに顔を近づける等して少くとも運転席より見透し得る範囲内で進路の安全を確認すべき業務上の注意義務があると主張する。

前記当裁判所のなした検証(第一回)結果によるときは、被告人がフロントガラスに顔を接近させて前方を注視すれば、被害者の身体の一部を発見できる状況にあつたことが肯認されるのであるところ、一般に自動車運転者は発進に際し周囲の状況を注視し人や物に対する安全を確認してこれらに車体を接触させないようにして発進すべき注意義務の存在することは否定し得ないが、個々の事態について注意義務を確定するについては、危険状況の一般的予見可能性が考慮されなくてはならず、当時の具体的状況上結果発生の客観的予見可能性が高ければ高い程、より厳格な注意義務が要求されるので状況に応じては下車して確認するとか、フロントガラスに顔を接近させ或は窓より首を出して確認する等しなければならないが、客観的に結果発生の可能性が低くなれば注意義務の範囲も客観的にそれに応じて右のような措置までは必要でなくなる場合があり、客観的に結果発生を全く予見できないときは右のような措置をとる必要は全然なくなり、通常要求される程度の安全確認義務で足りるものであり、結局危険状況の客観的予見可能性如何を基準として相当な注意義務が決定されなければならない。

これを本件について考えて見るに、既に認定したとおり、被告人が本件事故現場附近で停車し客を降し日報に記載するなどその間二ないし四分間程停車している間に被害者がマンホールで作業を開始したものであるところ、前掲証人牧野松夫の供述及び実況見分調書添付現場付近見取図によれば、本件駐車場はいずれも突堤中央道路に接する船客待合所と他建物の間に設けられたもので右道路との間の区割の設置のないため、専ら船客或は港湾関係者等において便宜通行し得る状況にあつたものの、座して休憩したり幼児が遊んだりするようなところでなく、また、本件マンホールの検数も事故前四ヶ月位前から月一、二回するにとどまつていたものであることが肯認されるので、このような状況下において前認定程度の停車後発進するに際しては、運転席よりの死角範囲内のマンホール内で作業を開始するかも知れないことを予測し得るような何等の客観的状況も存せず、従つて本件結果発生の一般的予見可能性は皆無であり、被告人自身も予見していない以上、被告人は本件発進に際し運転席より通常運転する状態即ちバツククツシヨンに凭れたままで前方左右を注視する限度で安全を確認して発進すれば足り、運転席より死角範囲内にある被害者を顔をフロントガラスに近づけて確認することまでを注意義務の内容として要求することは相当でない。

以上の理由により結局本件公訴事実は犯罪の証明がないから、刑事訴訟法三三六条に則り主文のとおり判決する。

(裁判官 山田敬二郎)

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